ウソを付かないよりも、ウソを見抜き共存する術のほうが大事じゃないかね
人は大なり小なり嘘をつく
年に何度かこれを決定付ける研究が公表される
あたり前のことであり
重要なのはそのウソの中身だろう
何のために発したウソなのか
事実という言葉自体に
その時や場所タイミングで
事実足りえる場合と足り得ない場合がある
なので、発した時点でウソでなくとも
後からウソになることもあるし
はじめからウソのだったものが
事実に変わることもある。
基本的に、人は自分をよく見せるためにウソをつく
程度の違いはあれど、誰にでもある事
誰も傷つかない悪意のないウソは
肯定されるべきだと言われる
個人的にもこれは問題ないと思う。
そんなものまで厳密に見ていると
会話にならんだろう。
悪意のあるウソ
悪意はなくとも自分をよく見せるために
自分に有利になるようなウソ
こういうモノが問題なんだろう
子供によく
ウソはいけないと教える
でも、何故ウソが良くないのは教えないし
ウソの見破り方も教えない
日常的にウソを付く相手は
本来の自分を認められず
自身を正しく評価できていない
自分の欠点も利点も分かっていない
たまに分かってるけど治らないというやつがいるが
分かっているなら何故自己申告しないのか?
知ってる範囲でウソを付く自分を正しく評価し
それも含めて自分であると分かっている人は
勢いでウソをつきやすいと自己申告してくる。
ウソをつき続けることは
自分を追いやり
自身の評価をだまし
自分が成長するチャンスを自分で奪っているにほかならない
ウソの見破り方で最も簡単なことは
それがどういうものか、一歩踏み込んで聞いて見ることだ
どういう意味か教えてとか
具体例は?
みたいな感じで聞いてみると
知らない相手ならば、次が出てこない
偽作家の見破り方みたいなもの
何をどうしようが人はウソを付く
人の自尊心は宗教的な戒めを受けるほど
強欲なものであり
こと男性に至っては
異性からの注目や社会的地位のための
自己顕示欲の結果として現れやすい
ウソをつかないように仕向けることも大事だが
ウソを見抜ける能力もそれ以上に大事
実社会に出てからほんとうに必要なことは
今の世の中どんどん教われなくなっている